表紙&本文
ナイスの日補完計画—『時をかける少女』の保存則—
●初出:ラブタコス発行「Cosmo Graphix」内コラム(2007.2.25)

 2006年公開の映画『時をかける少女』(監督:細田守)について、「ワンダーフェスティバル」参加時のしおりに書いたもの。推敲不足だったので全面改稿。枝葉刈り取った分読みやすくなった(当社比)……か?
 好きな作品なのになぜ難癖じみた邪推をするのか?すべては“俺だけが作品の核にたどり着いているんだ”という歪んだファン心理であろう。が、深遠に達するインテリジェンスは育んだものにしか備わらない。半可通が語ったが最後、未熟なオツムが露わになるだけ。まぁそこが笑いのツボなんでいいけど。
 されど見当はずれな妄想とて作品と接した証。価値はなくても記憶に残したいものなんである。


相似律電子ジャー
 “○○は一見タイムパラドックスをおこしたようにみえるがそうではない。○○・○○によってひきおこされた時空のゆがみを未来からのエネルギー収支で調整し、自身はエネルギーを失って死んだのである”諸星大二郎『孔子暗黒伝』(1977)より引用。(つまみ食いじゃもったいない作品なのでキャラ名は原典を読んでいただきたい。面白さ大保証)。
 時空のからむエピソードのせいか、○○に千昭、○○・○○に真琴を当てはめると『時かけ』の構造が重なってくる。無論千昭は死なないが永遠の別れは死と同義であろう。死と同義……妄想エンジンがここで回り始める。

 『時かけ』で時空のゆがみに相当するもの。それは歴史改変と見る。実行可能な登場人物は真琴と千昭。魔女おばさんの語る“時間は不可逆”。他者・自分を問わず、不可逆をもたらす死をなかった事にする行為こそ歴史改変の最たるタブーである。

 これを前提に置くと冒頭の野球ごっこ以降の展開が違って見えてくる。前日妹にプリン食われたというからあれはナイスの日の一場面。真琴が見た予知夢?『時かけ』はサイキック映画ではない。
 あれはプレ・ナイスの日で、真琴が起きた時から後はリセットされた2度目の『時をかける少女』が始まったのである。プレ・ナイスの日では午後四時の惨劇が存在している。リセットした……いや、したかったのは当然千昭である。

宇宙は慈変泰※1
 千昭はクルミを渡す事(真琴が拾ったのではなく拾わせた)によって真琴の死という歴史を改変し(時空のゆがみの発生)、二次災害的に起きた浩介と果穂の事故は千昭の持つクルミ(未来からのエネルギー収支)によって相殺されたのだ。
 だがその結果、千昭が来訪した目的は果たせず、本人が望めばなお滞在できた時間にとどまることもできず、別離というラストへ向かう。未来からもたらされたエネルギーはプラマイゼロとなり、時の流れは事件を川面の波紋のように取り込み流れていく。後に残るのはそれぞれの時間……これは悲劇だろうか?

 『時かけ』観賞後は爽やかな感情が立ち上がってくる。真琴から出会いを喜び、体験を血肉にしていく前向きなエネルギーが発散されているから。
 時をかけるとは別れから逃げず、受け入れた人間に冠された動詞である。さてこの先、映画館へ何回タイムリープ(観賞)できるのか?チャージされた回数(モチベーション)が不明だけに、心許ないのは確かである。(栖)

※1 これも『孔子暗黒伝』より。この世の理への人為的な介入は不安定な状態を生む云々……。ん?『時かけ』もそうじゃないか?千昭の出現がその世界に存在しないエネルギーを生み、時の運行がゆらいだという事では……無理強いですか。そうですか。